亀山雲平翁の新たな墓碑文が見つかりました

先日、さいたま市の塩澤秀陽様から、亀山雲平翁が故鈴木昌平君のために撰した自筆の墓碑文の写真を送って下さいましたのでご紹介します。

鈴木昌平氏は、姫路藩士であり亀山雲平翁が藩校考古堂の教授をしていた時の門人であります。碑文を見ると、一生涯軍人で通し、征台の役、西南の役でも活躍しております。

また、酒井忠邦記念碑建立の出金者の一人で、8番目に多い弐圓二十銭を寄付しております。

肝心の墓ですが、碑文の上に赤文字で書いた注意書きがあり、本文の「某塋域」について、「景福寺山ナレハ瑞松山トカ城西トカニ御記シ可被下候」と書いており、本文の横に「坂田町景福寺」と、恐らく跡を継いだ鈴木豪雄氏が書いている。即ち景福寺にあるはずですが、鈴木昌平氏の墓は見つかっておりません。ただ、昌平氏の曾祖父の、鈴木昌則(姫路町奉行)氏の墓はあります。

碑文(本文)をワードにしました。

故従七位歩兵中尉鈴木君諱昌平墓

君氏鈴木。諱昌平。舊姫路藩士也。考諱甲子郎。母白倉氏。嘉永五年(1852年)七月二日生。幼入藩校。學文武之業。明治五年(1872)。以壯平入大阪鎮臺。爲二等伍長。六年爲一等伍長。進爲陸軍軍曹。是時。所属本隊。爲熊本鎮臺所轄。而未違移也。以福岡縣頑民蜂起。出軍於小倉。遂移於熊本鎮臺。七年。以佐賀縣士族蜂起。出軍於三潴縣。進撃於久留米。轉戦入佐賀城。事平。歸熊本鎮臺。又以官事。急至佐賀而還。閲數日。臺灣征討之群興。従其役凱旋。九年。賜一等資金。是年。熊本縣士族暴起。夜襲撃鎮臺。防禦甚力。時秋月草、賊亦起。出軍於久留米。爲斥平。先至豊後。事平。歸熊本鎮臺。十年。鹿兒島縣士族暴挙。勢甚猖獗。將東。圍熊本城。嬰守累月。圍始解。四月。進陸軍曹長。躡賊。轉戦于肥後豊後日向等地。五月又爲陸軍少尉試補。遂圍鹿兒島城。城陷。歸熊本鎮臺。十一年二月。以曩従臺灣佐賀之役。今又鹿兒島逆徒征討。盡力不正。叙勲六等。賜年金八十四圓。九月。又任陸軍少尉。十二年。卒業於戸山学校。十三年三月。叙正八位。十四年五月。復入大阪鎮臺。十五年。爲軍法会議議員。十六年。爲修業兵教官。十七年六月。更任歩兵中尉。九月。叙従七位。十月。請免本職。十八年(1885)四月十八日。病歿于。姫路私邸。享年三十四。葬某塋域。君娶中里氏無嗣。以弟某承後。某立石表墓。使雲銘之。銘曰。

王事蘼盬 中外従軍

赳赳某武 赫赫某勲

姫路 亀山雲平勤撰

諱(いみな)・・・忌み名。実名
考(こう)・・・亡くなった父親
壯平(そうへい)・・・職業兵
鎮臺(ちんだい)・・・地方を守るために駐在する軍隊
頑民(がんみん)・・・道理をわきまえず、人の言うことを聞かない人民
閲(えつ)・・・経過する
斥(せき)・・・退ける。武力・腕力をもって、あとへひかす。撃退する
猖獗(しょうけつ)・・・勢い盛んなこと
將(しょう)・・・率いる。進む。
躡(じょう)・・・おう。追いかける。踏み潰す。
嬰守累月(えいしゅるいげつ)・・・守りを固め数か月がたつ
于(う)・・・いく。行く。ああ、詠嘆の声。ここに。
曩(のう)・・・さきに。以前に。
塋域(えいいき)・・・墓地。墓場
王事蘼盬(おうじびこ)・・・引用文。王様の仕事は終わりがない
中外従軍(ちゅうがいじゅうぐん)・・・いたる場所で軍隊に従事し
赳赳其武(きゅうきゅうそぶ)・・・勇ましく猛々しい
赫赫其勲(かくかくそくん)・・・その功績は著しかった

 

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