『村老の話』 長野哲氏が木場の長老から聞き取った話です
【木下要次郎 談】 昭和37年7月7日聞取
現鳥居は明治30年に作った大工、安原さんで、この人は祭りの世話をよくした人、この後を木下六次さんがついだ。
【木庭順次郎 談】 昭和34年7月26日聞取
木庭氏が木場へ来たときは、八家もあまり家はなく、大木場の波止場の方に二軒家があり、一軒は中沢家であり、あとの一軒は某であった。当時、東之町、中西丁には家がない。
木庭家の「だんか」は大塩の妙教寺であり、焼香順1番は近藤氏で、2番は木庭氏である
木庭家が福泊に落ちのびて来たとき、お供介添役をしてくれた人である為1番である。
又仏像を別館より持って来て祀っている。
【木下六郎 談】 昭和35年11月5日聞取
福泊に砲台があった。福泊の「クマカゲ」相撲の四股名、この人は砲兵であった。
ヂンガ山。 八家の小島にも砲台があった。柏原家の辺りである。
昔、山上さん参りする時は、七日前から女断地の為、波切不動尊へこもって水ごもりをとった。木場の波止場の石は家島の石である。赤壁の石は丸くなってしまうのでダメである。
【木下六郎 談】 昭和34年3月3日聞取
今より70年前頃に、木庭神社の大修理をした、設計者は姫路の人である。
木下家の屋号は「木屋」である。 長瀬本家の塩田は沖十三番で、二軒を一軒で焚いた。
三木本家は、塩田十軒前持っていた。
三軒屋は次の三家である。
1. 木下六次の母は中沢嘉平次の出身である。
2. 須田安兵衛
3. 新し屋 彦兵衛 この三家が昔より三軒屋と呼んだ。
【神澤憲太郎 談】 昭和34年3月4日聞取 83歳
三ツ橋の前八反、堤防から前十八反の塩田を開発した。兄弟3人あり
長男―三木屋 次男―中屋 三男―清水
松原神社の下乗石は、東は福泊の小さい地蔵さんの所にあった。西は飾磨の清水にあった。明治35年頃に今の所に移転した。明治八年神仏分離した。
八正寺の宝物を武藤山治に売って事件になった。金の仏像であった。
木庭順次郎は75歳位で網干で医者をしていた。
前六反浜 西の方―本三木家 中の方―中沢家 東の方―中嶋家
東山 旭マッチ工場の所で練瓦工場を経営し失敗した(長瀬家)
長瀬義次郎(番頭 三木 春という)
長瀬家の「イナリ」さんは福一稲荷である。
地釜屋前七反四番が長野家の塩田である。5、6年後に借浜をして損をしてやめた、長蔵・豊蔵・民蔵の三兄弟でやった。