福泊の台場(幕末)

福泊の台場

 江戸時代も末期の安政年間、姫路藩主酒井候は幕府の命令により、外敵に備えるため、元姫路城外練兵場の西南隅の山麓で大小の大砲を鋳造、姫路、室津、飾磨、高砂、古宮、そして的形の福泊、この六カ所に砲台場を設置した。
 福泊の台場は八家地蔵の東の方に十間ほどを基底として南へ半円形に土地をならし、砲塁を高く築き、その上に大砲三門を備えつけた。主砲の長さ約4.5メートル、重さ440キロ、22キロの重さの砲弾丸を用い着弾距離は2.7キロ内外だったという。
      
 灯篭山の南麓に火薬庫を設置し、向山の頂上に着弾点をみる遠眼鏡台が置かれた
。   
  しかし、大砲は外敵に発砲する機会も得ず、明治維新となって撤収された。砲塁は明治十六年暴風雨のとき怒涛のために全て破壊され、地盤の原形も止めていない。また、火薬庫、遠眼鏡台も今はない。

平成12年3月7日 記 長野 哲

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です