プロフィール

[略歴]

大正13年11月2日、姫路市木場に生まれる。
八木尋常高等小学校を卒業後、父義春が営んでいた船釘製作所を手伝う。
昭和19年10月1日、姫路五十一部隊に入隊する。
除隊後、木場にて三福燐寸工業所を設立するも3年後に倒産、昭和25年4月、旭燐寸株式会社に入社する。
旭燐寸株式会社を退社後、昭和36年9月16日、現在の八家土地興産株式会社を設立する。
平成元年10月10日、「節宇亀山雲平顕彰会」を発足し代表となる。
平成15年8月3日、真夏に史跡調査に行き、帰宅後脳梗塞を発症する。
平成22年5月27日、享年87歳の生涯を閉じる。

[社会貢献]

八木小学校、灘中学校、飾磨高等学校の育友会長を歴任し、学生の育成に貢献する。
八木消防団、民生委員・児童委員(12年)、木場区長・木場総代(4年)歴任し、故郷の発展に寄与する。
 殊に、昭和49年、村の一大事業として行なわれた、無縁塔建設に尽力した。
また、市長、県会議員、代議士の木場後援会長として地元議員の応援を行った。

[郷土史研究]

小さい頃から歴史に興味があり、木場正福寺の過去帳を調べて家系図を作成し、また、墓地の山裾に埋もれていた墓を掘り起こし供養した。
昭和36年には、先祖の300回忌を行っている。
仕事の傍ら、郷土史を研究していたが、ついに平成元年10月10日、数名の同士と共に「節宇亀山雲平顕彰会」を設立する。
亀山雲平が、姫路藩士で姫路城無血開城に寄与した人物である事、また教育者であって、白浜に私塾観海講堂を開き約3000人もの門人を育成した事を、地元の人すら知らないのを嘆いたためだ。
平成2年5月25日に、亀山雲平顕彰会の機関紙である「青松白沙」(せいしょうはくしゃ)を発刊する。以後、平成8年10月30日、第7号まで続く。
平成4年2月8日、第一回顕彰会総会が行われ、74名が出席した。この時、県下一の歴史家であった故島田清先生、陽明学の世界的な権威であった九州名誉教授故岡田武彦先生の記念講演が行われた。
平成12年5月6日、亀山雲平翁没後100年記念講演が、姫路市灘市民センターで行われ、約90分に亘り亀山雲平翁の業績について語った。
平成13年6月22日、白浜公民館で第一回講演会を開催し、以降、全十回、同館で講演会を行った。
平成14年6月22日、姫路灘市民センターで行われた、「亀山雲平の足跡をたどる」と題した講演が最後の講演となった。
 収集した文献、約8000点
 日記、1946年から2003年まで57年分

プロフィール への1件のフィードバック

  1. 和田聡子 のコメント:

    荒川神社の本殿に亀山雲平の書がかけてあり、亀山雲平について興味がわきネットで調べていましたら、こちらのサイトにたどり着き訪問させていただきました。
    私は木場の長野家の出身で東ノ町で酒屋を営んでいた長野逸郎の孫にあたります。今は糸引地区に住んでいます。
    長野家の先祖のことが詳しくかかれており有難く読ませていただきました。
    ご先祖様が正福寺を建立したことは存じていましたが、そのほか世のために力を尽くしていたことを知って長野家の子孫として一層誇りに感じました。
    また長野哲様のお名前はよく知っていましたが、動画で初めて拝見して大変立派な方で嬉しく思いました。妹たちにもこちらのサイトのことを知らせたいと思います。

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