亀山雲平顕彰会総会

亀山雲平顕彰会発足後第1階総会が、平成4年2月8日、飾磨「天守閣」に於いて、出席者74名の参加で盛大に行われました。

 

講演テーマ    “ 播磨聖人亀山雲平 ”     島田 清

1.亀山家の家系(学問の家―文化人の血脈-)

①     曽祖父-亀山源五右衛門成賢(なりかた) (書院番・物頭役 禄高二百石) 好学.   俳句をたしなむ。

辞世“紫の露とともに消えゆく夕かな” 天明元年八月二日(1781)没.享年58歳

②     祖 父-亀山源五右衛門成將(なりまさ) (大阪留守居役 禄高百八十石) 

 大阪の崎門学者 御牧眞斎に師事(根岸混処・近藤抑斎と同門)

      友人股野玉川(龍野藩儒、孫の達軒は雲平の門弟)

合田麗沢(姫路の脇本陣主 好古堂教授 河合寸翁の師)   玉田默翁門

③  父 -亀山源五右衛門百之(ももゆき)   崎門学者・姫路藩士 村田常昌に師事

2.亀山雲平の生・没

①     生 誕-文政5年1月20日(1822 )-藩主は酒井忠実(ただみつ)の時代

      姫路藩士 亀山百之の次男として、姫路に生まれた 

( 天保14年閏9月30日 兄剛毅(文政3年生)の病没により亀山家相続22歳)

②     逝 去-明治32年5月6日 (1899 )   飾磨郡白浜村 観海講堂にて逝去 享年78歳

3.雲平の修学 並びに 指導 その壱 ( 姫路時代 )

①     天保3年 (1832 )-11歳-藩校好古堂に入り、藩儒 角田心蔵に師事( 天保10年迄7年間)

[天保5年.藩主忠実隠居、養子 忠学(ただのり)-兄 忠道(ただひろ)の子-相続]

②     天保10年 (1839 )-18歳-4月16日偶日方句読手伝 (77月5日.本役となる)

③  天保12年 (1841 )-21歳- 書物預役兼務 〔天保12年河合寸翁逝去 仁寿山校設立者〕

④ 天保13年 (1842 )-21歳- 好古堂肝煎( 藩主忠学は仁寿山校を廃止し好古堂に併合)

⑤ 天保14年 ( 1843 )-22歳-2月26日好古堂指南手伝 ( この年亀山家相続 )

   11月 焼火番 12月23日 書物預役罷免 [天保15年(甲辰1844-12月改元 弘化元年となる)]

3月、忠学は『嚴纂(げんさん)詩緝(ししゅう)』の跋文を書いたが10月10日逝去(37歳)

( 弘化2年10月24日『嚴纂(げんさん)詩緝(ししゅう)』の翻刻が完成したので将軍家慶ならびに世子家定に献上した。)

⑥     弘化3年 (1846 ) 9月25日-25歳- 好古堂 肝煎罷免  

( 天保15年-弘化元年-忠学逝去のあとは忠宝が姫路藩主となった ) 十六歳

4.雲平の修学 並びに 指導 その弐 ( 江戸時代 )

①     嘉永3年 ( 1850 )-29歳- 12月24日 江戸 昌平坂学問所に寄宿

②     嘉永4年 ( 1851 )-30歳- 1月18日 江戸 昌平坂学問所に入所。  佐藤一斉に師事

③     嘉永6年 ( 1853 )-32歳- 2月26日 昌平坂学問所書生寮詩文掛    

 6月8日中小姓( 待読 )  12月1日昌平坂学問所を退学

  [ 嘉永6年6月3日 米国水師提督ペリー浦賀へ来航 ]同年8月10日藩主忠宝逝去。25歳治世8年7ヶ月

同年9月9日忠顕継嗣となる。   嘉永7年( 安政元年 ) 1月16日ペリー再来航 -改元は11月27日-

安政2年5月18日 忠顕は相続後、初めて就封の許可を得て江戸を出発した。

 待読 亀山源五右衛門美和(よしかず)はこれに従った。

5. 好古堂教授

①     安政2年( 1855 )-34歳-6月1日藩校好古堂教授

(10月2日江戸大地震-安政の大地震-姫路藩士の死者59人)

②     安政3年( 1856 )-35歳- 忠顕は好古堂を改革し条規を定めた。

7月11日江戸在番となる。8月15日 忠顕は参観の為、姫路を出発した。(安政5年9月安政戊午の大獄が起こる)

 (安政6年9月11日忠顕は就封の途につき10月3日姫路に着いた)

(安政7年3月3日 桜田門外の変 3月18日改元、萬延元年となる)

  ③ 萬延元年( 1860 )-39歳-4月上旬忠顕は大和処士 森田節斎を招き好古堂に於て忠顕は『孟子』を進講させ、藩士・藩の子弟には経史を講じさせた。( 忠顕は参勤の為4月16日姫路発駕 )

     ( 忠顕は10月14日江戸藩邸にて逝去 25歳 治城7年 )

③     文久元年-( 1861 )-40歳-( 萬延元年12月9日忠績(ただしげ)が姫路藩主を相続した-34歳- ) この年雲平は大目付となる 

 

6.大目付時代

③     文久2年( 1862 )-41歳-(1月15日-坂下門外の変-この頃より藩内にも勤王党の一派が台頭した。)

5月26日忠績は就封の為江戸を発駕したが幕命により、暫く京都にとどまり所司代補佐京師警衛の任に当たった。

(この時、姫路藩の勤王党は大活躍をし、またその勢力を伸ばした)

この頃“天誅”横行。幕府は京都守護職を設け会津城主松平容保を任命した。

忠績は10月11日姫路へ帰った。

④     文久3年( 1863 )-42歳-(昨年勅使として東下した三条実美・姉小路公知の奉答の為、将軍家茂は文久3年2月上洛した。忠績は江戸留守居となる)

( 同年6月、家茂は江戸へ帰り、忠績は老中首座を命ぜられた )

( 同年8月政変起り、七卿落があった。大和義挙・生野義挙起きる)

⑤     元治元年( 1864 )-43歳-(文久4年2月20日改元して元治元年)

 1月15日家茂は勅命によって上洛し、この日京都に着いた。酒井忠績はこれに随行、事務総督として萬事を監した。(このとき姫路の勤王党は上京し忠績に切諫した。) [7月甲子禁門の変、長州藩士敗走]

[11月第一次長州征伐]12月26日姫路藩甲子の獄(勤王党の処刑)

この処刑決定の会議において雲平は次の如く主張した。

“罪ノ軽重ヲ論ゼズシテ刑ニ処スルハ妥当ナラズ、况(いわんや)親シク手ヲ下サザリシモノモ、斉(ひと)シク死刑ニ処スルハ如何”

-先生、正ヲ守リテ動カズ、侃侃(かんかん)諤諤(がくがく)トシテ、論争セラレタレバ、有司モ遂ニ其言ニ伏シタリ-(門人 大西樫太郎の追想『遺芳纂録』

雲平の持論“ 主ヲ持ツモノ、其勤王ヲ唱フル、先ズ其主ヲ助ヶテ勤王ヲナサシム.之レ眞ノ勤王ナリ”

(門人 炭本総太郎の追想『遺芳纂録』

⑥     慶応元年 ( 1865 )-44歳-(2月1日 忠績は大老職に補せられた-井伊直弼以来5年ぶり-)

(4月12日第二次長州征伐の軍が起こった。

家茂は大阪城に進発。忠績は江戸留守居を命ぜられた)(11月15日忠績は大老職を免ぜられた)

⑦     慶応2年( 1866 )-45歳-(7月20日将軍家茂は大阪城中に薨じた。21歳-後は慶喜が継ぎ15代将軍となった)

⑧     慶応3年( 1867 )-46歳-(2月30日忠績は隠居し、養子(実弟)忠惇(ただとう)が後を継いだ-29歳-)忠績の治城は6年余。老したのち閑亭と号した。

[1月9日明治天皇即位(せんそ)孝明天皇は慶応2年12月25日崩御]

⑨     慶応4年( 1868 )-47歳-(9月に改元して明治となる) 

前年12月4日酒井忠惇(ただとう)は慶喜の召命を受け大阪城に入ったが12月30日老中首座を命じられた。

1月3日 鳥羽伏見の戦が起こった。連戦4日 幕軍大敗 慶喜は1月7日軍艦開陽丸で江戸に帰った。(忠惇(ただとう)随行) 出陣していた姫路藩兵は忠惇(ただとう)の命により大阪より姫路に引揚げた。 -指揮官高須隼人宗山 姫路着は9日-

  1月11日 慶喜の命に従って京都(進発した諸藩に追悼令がでた。 -山陽・南海鎮撫総督 四條隆謌(たかうた)-

( 備前藩主 池田茂正・龍野藩主 脇坂安宅(やすおり) に応援を命ず )

1月15日 備前藩の陣代、池田章政に対し、姫路城開城を申出た。

使者は斎藤鑑介・亀山美和。

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