平成13年4月22日 長野哲 記
慶応四年一月三日京都鳥羽伏見の戦いに、幕府軍に参加した姫路藩は朝敵となり、同十一日追討の勅命が発せられ、官軍備前岡山藩の兵が攻めより、景福寺山から姫路城めがけて砲撃を加えて来た。
このときの官軍との交渉係りが亀山雲平と斎藤鑿介であった。 雲平らは福中橋上で停戦交渉をなし、官軍に対し無条件降伏をして、直ちに城を開け渡す事とし、家老大河内帯刀、松平孫三郎、河合又七郎を人質とし備前軍本営景福寺へ引渡し、また、兵器弾薬食糧他一切を差出し即日開城を決した。
即ち全面降伏である。
そして雲平が城へ帰って来たのは白々と夜が明けかかった頃であった。
一月二十三日御勅使四條隆謌以下三百余命、先供薩摩、明石、後供芸州が姫路城へ入城、城接収の巡視も終わり同二十七日を以て藩士に帰城を許された。よって一段落したが、藩主が不在なので、重役協議の末前藩主忠績、現藩主忠惇の二人に帰城して貰い朝廷に対し不敬の謝罪をしてもらう様決し、その説得役に亀山雲平が指名された。しかしいずれも聞き入れて貰えずこのままでは藩の存亡に関わるので、かねてより考えていた、忠績、忠惇両名に隠居して貰い支藩の伊勢崎藩主酒井忠強の弟直之助(後忠邦)十五歳を養子に迎え忠績に代わり朝廷に謝罪せしめる事にした。
慶応四年三月三日直之助一行は雲平、松崎佐平に守られ一路京都へ中仙道を急いだ。江州武佐まで辿り着いたところ、京都留守居役本多意気陽(家老)の家来荒川牧蔵が来、直之助一行の入京は差止めされていることを伝えた。そこで大津本陣で宿泊する予定を変更し浄土宗大施山西福寺に謹慎しながら朝廷に対し嘆願書にて謝しする旨を秦請していた。その間国元姫路では家老、重役らが手づるを頼って新政府への工作に当っていた。
そして、神田兵右衛門の尽力により、新政府兵庫裁判所判事岩下方平を頼り兵庫裁判所総督東久世通禧に姫路藩の情況視察を勧めた。
通禧は、伊藤博文、寺島宗則、中路延年、岩下方平等を従え、三月二十一日姫路船場本徳寺に入った。
髙須隼人他姫路藩重役達は通禧の指図に従い朝命を尊奉する事を誓い、新政府の東北出兵の軍資金として十五万両の献金に応じた。
これに依り、大津足止めになっていた直之助に姫路帰藩の許可が下り、この事を京都留守居役三浦文左衛門より亀山雲平へ飛脚が着いた。三月二十六日急ぎ西福寺を出立し山崎街道を経て同三十日午後四時頃姫路東屋敷へ入った。このとき姫路城下の人々は十五歳の若き新藩主を驚喜して出迎えたといはれている。
明治元年五月ニ十日ついに忠邦に家督相続を命ぜられ姫路藩十五万石は酒井家に賜り、本領安堵された。