節宇亀山雲平と明治維新 (私感・・雲平像) 金井利孝
はじめに
節宇亀山雲平は播磨聖人と讃えられていたが、昭和も過ぎ、やがて多くの人たちの記憶からその名は薄れていった。この状況を憂えた故長野哲氏(八家土地興産社長)は「亀山雲平顕彰会」を立ち上げられ、散逸した雲平関係資料の収集や顕彰活動に文字通り尽力された。今、亀山雲平の名が再び人々の記憶に蘇りつつあることは、氏の特筆すべき功績であると云えよう。現在は御子息長野総一郎氏が「亀山雲平顕彰会」を受け継がれ、精力的に活動されている。
亀山雲平は初名恭吉、のち式毅(のりたけ)、由之(よしゆき)、敬佐(よしすけ)、源五右衛門、美和(よしかず)、雲平(明治二年以降)と名乗り、曳庵、節宇と号しているが、此処では「雲平」と呼ぶこととする。
また、歴史上の人物ということで敬称は省略した。
ここでは亀山雲平が幕末から維新にかけて、どのような時代をどのように生きたかを主眼として取上げ、維新後の「久敬舎(くぎょうしや)」「観海講堂」以降については、弟子達の語る雲平像を紹介するに程度に止めることとする。なお、雲平のあらましについては、長野哲会長が亀山雲平顕彰会会報創刊号に簡潔に紹介されている。 (資料①青松白沙)
全文は次をクリックして下さい、亀山雲平と明治維新-金井利孝