長野家先祖 橋本八助礼勝 三百回忌法要にあたり
昭和36年4月16日 施主 長野 哲
私どもの先祖は、西播拾八萬石英賀城主三木宮内少輔兵庫介通安である。
もつと古い先祖は、四国の英雄で元冠の役で有名な河野六郎対馬守通有であります。
英賀城主三木通安の曽孫北池十郎左衛門村家、その子橋本十八郎家礼は、時の城主三木掃部介通秋と共に、大阪石山本願寺の合戦に参加、織田信長と戦つて抜群の手柄を立てた。
今より約四百年前即ち天正八年二月十三日信長の命を受けた羽柴秀吉英賀城を攻め遂に戦いに敗れて落城した。天正十一年旧家臣一同に英賀城の旧領地、軍用金、糧米を秀吉より賜わり、みんな郷士となつて各地に移り住んだ。橋本十八郎家礼(いえよし)その子橋本八助礼勝(よしかつ)は木場を拝領家臣多数を引連れてこの地に来て住み、木場で初めての瓦屋根の家を建てた。
それより村の人々は瓦屋(かわらや)と呼んだ。後に屋号となつた。
徳川時代になつて家業益々繁昌して歴代姫路城主に重用知遇せられ、又度々御来遊があつた。
ことに正徳、享保、宝歴年間は塩の好況に依り全盛時代をもたらした。
享保年間に姓を橋本氏から長瀬氏に改めた。
当時の人物は長瀬七郎太夫義隆、長瀬源左衛門義方、橋本利太夫宗重、長瀬久左衛門、長瀬由兵衛などである。
代々山野の開墾、塩田の開発、三ツ橋の架橋、正福寺の建立、などの大事業を行ない、政治方面には組頭、庄屋、大庄屋などの重職をも司り、大いに藩や村のために力を尽した。
百五十年前文化年間に長瀬七郎太夫義誠、長瀬源左衛門義孟は墓の建立についていさかいをした。そして天保元年になつて源左衛門は藩許を得て姓を長野氏と改めた。
幕末の頃は勤皇派に属し秘かに多くの勤皇の志士を援助した。
維新後は時代のはげしいうつり変りに抗しきれず明治も中頃に至つて家運漸く衰えを見せ一族ひつそくに瀕した、永く長瀬のトツクリ松と共に四百年の歴史を持つて栄えて来た家系も今はその跡をもとどめず、又荒れ果てた屋敷に古井戸と門長屋が古しえの物語を秘めてあるも万感胸を締めつけるものがあります。
栄枯盛衰は世のならいと錐も、祖先の残した偉大なる功績と遺徳は不滅にして、当時の物語は永く正福寺御廟所に刻まれ保たれているのであります。
幸にして子孫は流れを断たず、各地に散在すると雖も、祖先への情禁じ難く、一族協心相倚り相援けて喜憂を共にし、併せて祖先の宏大なる余徳に感謝の念を捧げ偏に歴代祖先の霊魂に対し心からなる供養と冥福を祈りたいと思うのであります。