作家の柳谷郁子さんが亀山雲平さんの絵本を出版されました

令和2年4月23日(木)の神戸新聞朝刊に作家の柳谷郁子さんが「雲平先生はいつも」のタイトルの絵本を出版する記事が出ていました。
その新聞記事と絵本の一部を紹介します。

「雲平先生はいつも」一部分

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亀山雲平翁が書いた漢詩3点

今年、姫路市東山の旧家、小林宅にあったふすま3枚に、亀山雲平翁が墨書した漢詩3点がが見つかりました。建物は、解体され現在は更地になっております。

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明治維新の立役者の一人「亀山雲平」についての金井利孝様の講演を紹介します

節宇亀山雲平と明治維新  (私感・・雲平像)     金井利孝

はじめに

節宇亀山雲平は播磨聖人と讃えられていたが、昭和も過ぎ、やがて多くの人たちの記憶からその名は薄れていった。この状況を憂えた故長野哲氏(八家土地興産社長)は「亀山雲平顕彰会」を立ち上げられ、散逸した雲平関係資料の収集や顕彰活動に文字通り尽力された。今、亀山雲平の名が再び人々の記憶に蘇りつつあることは、氏の特筆すべき功績であると云えよう。現在は御子息長野総一郎氏が「亀山雲平顕彰会」を受け継がれ、精力的に活動されている。

 亀山雲平は初名恭吉、のち式毅(のりたけ)、由之(よしゆき)、敬佐(よしすけ)、源五右衛門、美和(よしかず)、雲平(明治二年以降)と名乗り、曳庵、節宇と号しているが、此処では「雲平」と呼ぶこととする。

 また、歴史上の人物ということで敬称は省略した。

 ここでは亀山雲平が幕末から維新にかけて、どのような時代をどのように生きたかを主眼として取上げ、維新後の「久敬舎(くぎょうしや)」「観海講堂」以降については、弟子達の語る雲平像を紹介するに程度に止めることとする。なお、雲平のあらましについては、長野哲会長が亀山雲平顕彰会会報創刊号に簡潔に紹介されている。 (資料青松白沙)

全文は次をクリックして下さい、亀山雲平と明治維新-金井利孝

 

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亀山雲平翁の新たな墓碑文が見つかりました

先日、さいたま市の塩澤秀陽様から、亀山雲平翁が故鈴木昌平君のために撰した自筆の墓碑文の写真を送って下さいましたのでご紹介します。

鈴木昌平氏は、姫路藩士であり亀山雲平翁が藩校考古堂の教授をしていた時の門人であります。碑文を見ると、一生涯軍人で通し、征台の役、西南の役でも活躍しております。

また、酒井忠邦記念碑建立の出金者の一人で、8番目に多い弐圓二十銭を寄付しております。

肝心の墓ですが、碑文の上に赤文字で書いた注意書きがあり、本文の「某塋域」について、「景福寺山ナレハ瑞松山トカ城西トカニ御記シ可被下候」と書いており、本文の横に「坂田町景福寺」と、恐らく跡を継いだ鈴木豪雄氏が書いている。即ち景福寺にあるはずですが、鈴木昌平氏の墓は見つかっておりません。ただ、昌平氏の曾祖父の、鈴木昌則(姫路町奉行)氏の墓はあります。

碑文(本文)をワードにしました。

故従七位歩兵中尉鈴木君諱昌平墓

君氏鈴木。諱昌平。舊姫路藩士也。考諱甲子郎。母白倉氏。嘉永五年(1852年)七月二日生。幼入藩校。學文武之業。明治五年(1872)。以壯平入大阪鎮臺。爲二等伍長。六年爲一等伍長。進爲陸軍軍曹。是時。所属本隊。爲熊本鎮臺所轄。而未違移也。以福岡縣頑民蜂起。出軍於小倉。遂移於熊本鎮臺。七年。以佐賀縣士族蜂起。出軍於三潴縣。進撃於久留米。轉戦入佐賀城。事平。歸熊本鎮臺。又以官事。急至佐賀而還。閲數日。臺灣征討之群興。従其役凱旋。九年。賜一等資金。是年。熊本縣士族暴起。夜襲撃鎮臺。防禦甚力。時秋月草、賊亦起。出軍於久留米。爲斥平。先至豊後。事平。歸熊本鎮臺。十年。鹿兒島縣士族暴挙。勢甚猖獗。將東。圍熊本城。嬰守累月。圍始解。四月。進陸軍曹長。躡賊。轉戦于肥後豊後日向等地。五月又爲陸軍少尉試補。遂圍鹿兒島城。城陷。歸熊本鎮臺。十一年二月。以曩従臺灣佐賀之役。今又鹿兒島逆徒征討。盡力不正。叙勲六等。賜年金八十四圓。九月。又任陸軍少尉。十二年。卒業於戸山学校。十三年三月。叙正八位。十四年五月。復入大阪鎮臺。十五年。爲軍法会議議員。十六年。爲修業兵教官。十七年六月。更任歩兵中尉。九月。叙従七位。十月。請免本職。十八年(1885)四月十八日。病歿于。姫路私邸。享年三十四。葬某塋域。君娶中里氏無嗣。以弟某承後。某立石表墓。使雲銘之。銘曰。

王事蘼盬 中外従軍

赳赳某武 赫赫某勲

姫路 亀山雲平勤撰

諱(いみな)・・・忌み名。実名
考(こう)・・・亡くなった父親
壯平(そうへい)・・・職業兵
鎮臺(ちんだい)・・・地方を守るために駐在する軍隊
頑民(がんみん)・・・道理をわきまえず、人の言うことを聞かない人民
閲(えつ)・・・経過する
斥(せき)・・・退ける。武力・腕力をもって、あとへひかす。撃退する
猖獗(しょうけつ)・・・勢い盛んなこと
將(しょう)・・・率いる。進む。
躡(じょう)・・・おう。追いかける。踏み潰す。
嬰守累月(えいしゅるいげつ)・・・守りを固め数か月がたつ
于(う)・・・いく。行く。ああ、詠嘆の声。ここに。
曩(のう)・・・さきに。以前に。
塋域(えいいき)・・・墓地。墓場
王事蘼盬(おうじびこ)・・・引用文。王様の仕事は終わりがない
中外従軍(ちゅうがいじゅうぐん)・・・いたる場所で軍隊に従事し
赳赳其武(きゅうきゅうそぶ)・・・勇ましく猛々しい
赫赫其勲(かくかくそくん)・・・その功績は著しかった

 

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「亀山雲平とその時代」発行記念講演会が、開催されました。

平成27年3月29日(日)、白浜公民館に於いて、松原八幡神社氏子総代会主催で、「亀山雲平とその時代」発行記念講演会が開催されました。

亀山節夫宮司の講演、中島友子教授及び中嶋裕子講師による講演により、亀山雲平翁の姫路藩士としての役割、松原八幡神社の宮司及び教育者としての活躍ぶりを分かりやすく解説していただきました。

残念なことは、「亀山雲平とその時代」を企画編集し全力投球されていました宮脇武義様が、病気のため欠席されましたことです。一日も速く回復されることを祈念いたします。

亀山雲平とその時代本   亀山雲平とその時代

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3代目桂米朝師匠と亀山雲平との関わり

平成25年3月16日、3代目桂米朝師匠が亡くなられました。享年89歳。
米朝師匠(本名中川清)は、満州で生まれ、帰国後姫路市大善町に居住し、城東小学校、旧姫路中学校、大東文化学園と進まれましたが、大東文化学園で亀山雲平翁が書かれた「標註弘道館記述義」を学びました。
標註弘道館記述義
米朝師匠の祖父(中川栄次郎)は、九所御霊天神社(現、神屋天神社)の宮司であり、亀山雲平翁の門人でした。もちろん、父も同神社の神主でした。
そのことを知った、顕彰会会員の是川健一氏が機関誌「青松白沙」に投稿し、それを桂米朝師匠に送ったところ、早速礼状のハガキが届きました。
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「観海講堂」(機関紙「青松白沙」のこと)をご送付くだされ、厚く御礼申し上げます。
又、三号に、是川健一様が、私のことを書いて下され、有難うございました。
雲平翁は、「弘道館記述義」の注釈では全国的に有名でした。
私も昔、大東文化学院でこの雲平先生の注釈本で「述義」を学びました。
今では、ほとんど忘れてしまいましたが、今日、忘れられていた亀山先生のことが、このような形で顕彰されていることは嬉しいことです。

平成3年(1991年)1月1日、年賀はがき

 

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白浜公民館10回講演会の中から「灘祭り」について

解説:山田 正文氏

はじめに

 この稿は、木場の「亀山雲平顕彰会」代表長野哲氏が2001年に白浜公民館において「播磨の聖人 亀山雲平を発掘する」と題して行った講演の中の「灘まつり」についてお話された内容を抜粋し文章にしたものである。

この講演は白浜公民館主催で、2001年4月から2002年3月まで、計10回にわたって行われた。なお、話の内容で一部集約したり、細かい部分は割愛させていただいた。また、人名等の固有名詞については聴き取りのため、呼び名、文字は正確ではないものがある。

 「灘まつりについて」全文を読む

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岡田武彦先生、松原八幡神社に楷ノ木植樹する

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松原八幡神社

平成5年11月20日、姫路市中村出身である、九州大学名誉教授、岡田武彦(福岡、平成16年没)先生が、松原八幡神社(姫路市白浜)及び山崎闇斎神社(宍粟市山崎町)に楷ノ木を植樹されました。

 

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山崎闇斎神社

岡田先生の父が亀山雲平の門人であり、また亀山雲平顕彰碑建立の発起人の一人であります。岡田先生は父の血を引継ぎ、世界的な儒学者となり、多数の著書を残しております。

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平成5年木場汐かき

長野哲は、亀山雲平顕彰会を立ち上げ、雲平の門人達の子孫を調査しているときに、岡田先生と知り合うことになります。以来、約10年間毎年、灘祭りには必ず帰ってこられました。長野哲と雲平顕彰会の仲間達は、いつも岡田先生と行動を共にして、先生の好きな日本酒で杯を交わしていた、そんな記憶が蘇ります。
ご冥福をお祈りいたします。

岡田武彦記念館を紹介します。ここをクリック

 

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松原八幡宮御神事御規式定(約250年前の灘祭り)

松原八幡宮絵巻

松原八幡宮絵巻

昭和十三年の六月に、八幡神社の祭礼に関する古記録が八木村役場で発見され、昭和二十三年に河野薫男氏により当時の現代語に訳され、それを更に現代文に書き換えました。下記はそのはしがきです。また、これにより、灘祭り絵巻と一致することが分かります。

(はしがき)
昭和十三年の六月に、八幡神社の祭礼に関する古記録が八木村役場で発見された。その記事によると、同じものを七通作成して七ケ村各一通を保有すとあるが、殆んどが失われこの一通が非常に貴重な文献となった。昭和二十三年に装丁して巻とするに際し、後世これを読む者のために読み下し易いように書き改め、尚註として文意を現代語に改めたものをつけ加えた。註には原文の語句や語の前後の調子から考えて筆者が下した解釈を記入したところもある。
            

昭和二十三年(宝暦八年(1758年)から隔たること百九十年目)

   
          註 者 河野 薫男  白濱町宇佐崎
   
          印刷者 株武会社 柳蛙社
               中野 善吉  白濱町松原

松原八幡宮御神事御規式定の全文現代訳 PDF5ページ

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長野 哲大兄を偲ぶ

案山子残筆           白浜町中村  山田 正文氏より

中国盛唐の詩人杜甫の詩に、酒の好きな八人の酒仙を歌った飲中八仙歌がある。今から十数年前、長野さんを筆頭にした我々五人の仲間のことを、杜甫の詩を真似て飲中五仙歌という詩を作った。その冒頭に
 雲哲微醺方卓然(雲哲はほとんど酒を飲まないが周りを超越し平然としている)
 高談雄弁驚四筵(話せば雄弁且つ魅力的で、周囲の人を引付け驚かす)
もちろん、「雲哲」というのは長野さんを指すのであるが、この一節のように、酒は一滴も飲まないのに、酒飲みの我々の愚話に付き合ってくれた上で、ご自分の経験談を滔々と話してくれた。特に、播磨聖人亀山雲平に話が及ぶと、まさに「高談雄弁」、独特の播州弁で夜半に及ぶまで話してくれたのが度々あったことが強く印象に残っている。

もともと、長野さんは郷土史に造詣が深く、また江戸末期からの日本の近代史に精通しておられ、著名な歴史学者や郷土史家、市立文学館や市史資料室との交流が深く、研究のために集められた資料は、並みの歴史学者を遥かに凌ぐほどである。
地元の灘のけんか祭に関することや、灘の地域に貢献した人々とその系列やネットワークなど、その範囲は広く奥が深い。しかもそのほとんどを自分で裏づけをされているところが、単なる趣味の域を超えて天命のような使命感さえ感じる。

特に、自ら「亀山雲平顕彰会」を創設され、郷土の松原八幡神社初代宮司であり、郷学の士である亀山雲平先生の顕彰に一生を捧げられたことは敬服に値する。
その研究ぶりは、碑文や墓碑銘があると聞けばどこまででも車で出かけて行って拓本を採り、ある著名人の子孫が居られると聞けばその家を訪ねて話を聞き込み、古い書き物や墨蹟があると聞けば行って見せてもらい、その熱意と行動力は本業以上と言える。
また、それらの情報が各方面から入ってくるだけの人的交流を作り上げたのは、長野さんの親しみやすく人を惹きつけ魅了する人柄の良さであり、人間性の大きさによるものである。

その中でも特筆すべきは、世界的儒学者である九州大学名誉教授岡田武彦先生を我が郷土にお迎えしたことである。

今から二十年前に、ある人から「こういう先生が居られる」と紹介され、その先生の著書の経歴の部分に「姫路市出身」としか書かれていなかったことに疑問を感じた長野さんは、直接先生に手紙を出された。もちろん岡田先生は我が郷土の白浜町中村のご出身なのは今では周知のことではあるが、当時は誰一人知らなかった。長野さんはご自分のライフワークである亀山雲平先生の顕彰活動で調べた「節宇亀山雲平顕彰碑」の碑文の中に「岡田重成」という名前があり、その人が岡田先生のお父さんではないかという推測をされた。案に違わず直ぐさま岡田先生から「私の父です」との返事が返ってきた。

それから岡田先生と郷土の人や姫路市や近隣の方々との交流、講演、遺跡探訪など、岡田先生との親交がはじまったわけで、世界的な儒学の権威である岡田先生と我々と我が郷土を結びつけた一番の立役者が長野さんである。

そのお陰で、亀山雲平先生を中心にした先師先哲の遺徳を顕彰し学ぶという「郷学」の礎が築かれたといえるし、このことは取りも直さず、その郷学を通じて、地元、地域を元気に活性化するという、長野さんが生涯をかけて貫かれた志でもある。

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